ノンちゃん雲に乗る

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先日101歳で亡くなられた児童文学者の石井桃子さん。
名実共に日本の児童文学の第1人者であり、良心であった方です。
翻訳の作品は以前にも取り上げていましたが(http://blogs.yahoo.co.jp/myrte2005/8798575.html
   http://blogs.yahoo.co.jp/myrte2005/27736582.html)、石井さんというとやっぱりこれ。 子どもの頃読んだのですが、もう1度読み直してみました。

舞台は東京郊外のさらに町はずれ、氷川様という神社の境内(関東の地理には不案内なので、これが現在のどのあたりになるのか見当が付きません)。 時代はー これを私は記憶違いしていました。 作品が発表された戦後間もない頃と思っていたのですが、冒頭に「何十年かまえ」と有ります ー戦前の話ですね。 でも作者は最後にも繰り返していますが、「何十年かまえ」は大げさで「十何年かまえ」じゃないでしょうか?(あるいは、21世紀の現代から見たものに書き直されたのかも知れませんが) お話しの中で小学生だったノンちゃんは、現在形では大学生くらいですから。

そう、お話しの中では主人公ノンちゃん(本名信子)は8歳の小学2年生。
春の日曜の朝、氷川様の境内で大泣きしていたのは、おかあさんが黙ってこっそりと、2歳上のにいちゃんだけを連れて東京(の街中)へ出かけてしまったからでした。 2年生になったら連れて行ってやると言っていたのに…。
腹いせに、にいちゃんが好きな池の畔の木に登ったノンちゃんは、池に映った空の中へ落ちてしまいます。
その空を漂う雲に引き上げられたノンちゃん。
引き上げてくれたのは、高砂の翁のような熊手を持った不思議なおじいさんで、雲には他の乗客もいるようなのですが、はっきりと分かるのは同級生の悪たれ長吉だけ。

おじいさんに言われるまま、ノンちゃんは泣いていたわけ、身の上話を始めます。
元は東京の街中、四谷に生まれ住んでいたのが、ノンちゃんの大病をきっかけに、この郊外に引っ越してきたこと。 家のこと、家族のおとうさん、おかあさん、にいちゃんのこと、そしてノンちゃん自身のこと。
つまり自分を見つめ直し、生き方、人生を考えるわけです。 それを難しくなく、子どもの日常を生き生きと描写しながら表現しています。

いかにも「古き良き時代の」という感じがするのですが、子どもを取り巻く環境が大きく変わったのはごく近年で、私が子どもの頃にはまだ、この作品にも通じる雰囲気が残っていたように思います。
それにしても、ノンちゃんの家族、おとうさん、おかあさんの健全で良識あふれること! でも、単純に昔は良かったとは言いたくないのです。 そんな大人ばかりでないことは、チラリとのぞく長吉の家庭の描写にも現れています。
それに最近の変化は、子どもや大人自体が変わったのではなく、社会全体が潤いとゆとりを失っているからでは?と私は感じています。 その原因は何なのか? どうすればゆとりや潤いを取り戻す(または創り出す)ことが出来るのか? そんなヒントを得られないかというのも、本を読む一つの理由ですが。

今読み直して気なるのは、このお話と最後の現在(発表時)の間には戦争があったのですが、その影がどうも薄いことです。 私が戦後の話と誤解していた原因もここにあったようです。
作品が発表されたのは終戦からまだ数年後、戦争の惨禍は言うまでもなかったのかも知れません。 まだ振り返るゆとりもなく、とにかく前向きに復興に取り組もう、という頃だったのかも知れません。 それにしても、ノンちゃんの兄も航空兵として戦争に行くのですが、それが人物造形に何の影も落としていないように見えるのは(そういうキャラと想定されている面もあるようですが)ちょっと納得出来ません。
もっと後、私が子どもの頃には、戦争の被害や心の傷という事が盛んに言われていたのですが、あの戦争の評価、総括はまだ終わっていないという気がします。

もう一つ気になるのは、ノンちゃんやその家族のような前向きで良識にあふれる人々が、真剣に復興に取り組んできたはずの日本の社会や子どもを取り巻く環境が、何時かどこからか、おかしな方向になってきていること。
石井さんはどんな思いで見ておられたのかなぁ?
冒頭にも述べたように、言行共に良心の固まりのようであられた石井さん。 まっとうに生き、発言することで世の中は良くなる、という信念をお持ちだったかも知れません。
でも人間の心も世の中の仕組みも、明るい面ばかりでなく、なかなか一筋縄ではいかない物。 それとどううまく付き合っていくか。
そこに文学、小説のおもしろさもあるのかも知れませんが。


「ノンちゃん雲に乗る」 石井桃子作 (福音館書店