カササギ殺人事件

 「殺人事件」物は読んでもあまり取り上げないようにしているのですが、この作品は本とか出版について考えさせられるところが多かったので。

 

 表題の「カササギ殺人事件」は語り手の編集者スーザンの出版社が扱う人気シリーズの新作ミステリー。 上巻はこの作中作が殆どを占めます。ところが解決編の犯人当てを目前にして作品は途切れている。 問い合わせようとしたスーザンは作者アラン・コンウェイが死亡したことを知らされます。 遺書らしきものが出版社に送られてきたことから自殺とされるのですが、結末の原稿はどうなったのか? 原稿の行方・作家の意図を探るスーザンの活動が下巻の内容で、作中作と現実世界、二重の謎解きが楽しめる構造になっています。

 

 作中作は1950年代のイギリスの田舎の貴族の館「パイ屋敷」を舞台にした不審死と殺人事件に、名探偵アティカス・ピュントが立ち向かいます。 この作品の設定や細かい描写にアガサ・クリスティへのオマージュが見られ、探偵もポワロを意識しているところがある。 最初の方で探偵は不治の病で余命宣告を受け、これがシリーズ9作目で最終話になることは分かっています。 下巻で作家も病を得て自殺するという意味の遺書を残しています。 スーザンが調べるにつれて、作家の家とパイ屋敷、作家周辺の人間関係と作中人物の対応が分かってきて、その対比が最も面白いところです。 もちろん作中作だけでも十分立派なミステリーになっているのですが。

 

 読み応えのあるものにしているのは言葉や名前に対するこだわり。 クリスティへのオマージュもそうですが、他にも随所にそれが見られます。 作家が送り付けてきた「純文学」の原稿や、講師のアランにアイデアを盗まれたとするミステリ講座受講生の習作とアラン作品の対比の文体の違いには感嘆します。 これは翻訳の力もあるでしょうが。

 名前に関しては、作家が「カササギ殺人事件」の表題にこだわって編集者と言い争うエピソードがあるし、人名もその重要性は計り知れません。 作中にもあるように、「シャーロック・ホームズ」が最初のアイデア通り「シェリンフォード・ホームズ」だったら、ここまでの成功はなかったかもしれません。 ポワロ、ブラウン神父、メグレ警部…皆なじみやすく覚えやすい。 その点では本作の探偵アティカス・ピュントの名には初めから違和感がありました。 この名で大成功することが出来るのか? シェリンフォード・ホームズの方がましじゃないですか。 作家にはこの名にする理由があって、それが大きなカギになっているのですが。

 

 ある作品が世に出るには作家がただ書くだけでなく、編集者・出版社との様々なやり取りがある。 いったん発表されても、読者の様々な思い入れで意味付けされたり、映画やドラマなど2次作品も生じてくる。 下巻ではそのあたりのことにも触れられているし、裏のテーマのひとつかもしれません。

 以前にも触れたドイルがホームズに、大佛次郎鞍馬天狗に抱いた感情を思い出しました。 本作ではアガサ・クリスティーがポワロを殆ど憎んでいたことも述べられている。 しかし、いったん世に出た作品は、もう作者だけのものではないだろうと思います。 私は「カーテン」を読んでから、ポワロ物だけでなくクリスティ作品を読む気がしなくなりました。 それを思うとドイルがホームズを復活させ、大佛次郎鞍馬天狗の最期を書かなかったのは本当に良かったと、つくづく感じます。 

 

カササギ殺人事件 上・下」  アンソニーホロビッツ

                山田 蘭訳   (創元社推理文庫)