星夜航行

ずうっと放ったらかしておいて、ようやく書く気になったのは、何度か取り上げた飯嶋和一さんの作。でも書く気になったのは、ちょっと訳ありです。

 

実はこの出版社、少し前に某作家を褒めようというキャンペーンをやって、一部で批判されていました。 本の感想は読んでみてのもの。初めから制限・誘導するのは邪道というべきでしょう。 広告・キャンペーンなんてそんなものかもしれませんが、限度がある。ここまで露骨なのは許せない。そんな会社の出す本は読みたくない!のですが、それでも手に取ったのは飯嶋さんの作だから。 それなのに後ろの著者略歴に「飯嶋和一の作にハズレなし」とあって、ちょっと嫌な気がしました。 何故そんな言わずもがなのことをわざわざ書くのか? もしかして…という危惧は、半分ぐらい当たっていたようです。

 

初期の作品は読んでないのですが、「始祖鳥記」以降の飯嶋作品の主人公は商人や民百姓で一本筋の通った人物。 支配層・武士に対する反骨心が強く、「糞侍(ブサ)」などと呼んでいる。 ところが本作の主人公・沢瀬甚五郎は登場時、徳川家康の嫡男、三郎信康の小姓。 「ええ?これは糞侍(ブサ)の話なの?」と思ってしまいました。

信康といえば、その才を恐れた織田信長の命令で切腹させられたことになっていますが、本作ではそれは家康と信康の対立・確執によるものとしている。 そこは納得できるのですが、そのあたりの事情をめぐる信康の人となりや甚五郎たち小姓衆との絆があまり響いてきません。 そのことが甚五郎の人物像やその後の行動に筋が通るものを感じる妨げとなっているようです。

 

信康と恩義ある小姓頭・石川修理亮の死により主家を出奔した甚五郎は、出家を経て堺の菜屋助左衛門配下の商人となりますが、九州を拠点に活動する彼は豊臣秀吉朝鮮出兵に巻き込まれていきます。

この朝鮮戦役の描写が延々と続き、見慣れない人名・地名の羅列は読むのがかなり苦痛でした。 それだけ混乱・錯綜した事態であり、学術書でない小説でここまで書くのは確かに力作ではありますが。 地図はもっと大きく詳しいものを、できれば本文中に関連地域の拡大図をつけてほしいと思いました。 人名も日本人でも昔の人は読みにくいものがある。朝鮮・明国人はなおさら。ルビの付け方も工夫してほしい。

 

それにしても大義のない戦は双方の一般民衆には大迷惑。 これが秀吉個人の考えから出て、異議を許さぬものなら、もう秀吉が死ぬしかないと思ってしまいます。 ただの泥棒に過ぎない石川五右衛門が大衆のヒーローとされた経緯が分かる気がします。

この秀吉の野望と妄想というもの、元々は織田信長の発想だったという話を聞いたことがあります。それが本当なら、日本全土が統一されても平和な世にならず海外に戦線を拡大する構想を明智光秀が知って、それを防ごうとしたのも本能寺の変の一因という解釈も成り立つかも。「麒麟がくる」で使わないかな(笑)。

 

秀吉・日本勢もひどいけど、朝鮮・明国の政治家・軍人もひどい。全く救いがない事態です。朝鮮水軍の李舜臣はかっこいいけど、彼も最期は武人の意地だかで無用な戦いで命を落としている。愛国者なら耐え忍んで故国の復興に働くべきと思いますが。

 

そんな中で人命を救おうと頑張る甚五郎ですが、その最後の見せ場が、武士時代、また商人となってからもあった彼の行動とブレを感じてもう一つ感動できないのです。

武士、僧侶、商人となり各地に赴き転変する中で、変わらぬ筋のようなものが見えにくいです。 それとも作者は、彼を運命を受け入れ柔軟に生きる人物として描いているのを、私に読み取る力がないのでしょうか?

九州・阿蘇家の臣で加藤清正軍に組み込まれて朝鮮に渡った岡本慶次郎を主人公にすれば筋は通ったと思いますが、それだと完全に武士の話になってしまいますね。

 

沢瀬甚五郎を主人公にしたのは、「終」の慶長12年のエピソードを使いたかったからでしょう。 去っていく甚五郎に元朋輩・永井直勝は心のうちで「幸くあれ」と言葉を掛けますが、私は「それで良かったのか?」と言いたいです。

 

某書評サイトに「(本作が作家の)集大成のつもりか」という書き込みがありましたが、まだこれで集大成にはしてほしくないです。 年齢的にもまだ書けるはず。次回作に期待します(できれば別のところから)。

 

「星夜航行 上・下」 飯嶋 和一作(新潮社)