ダルタニャンの生涯ー史実の『三銃士』ー

ご存じ「三銃士」のダルタニャン。 

https://myrtex.hatenablog.com/entry/21207559

以前ご紹介したように大好きなのですが、それが実在の人物だったという。
これは読まねばなりません。

まずは作者デュマが作品の序文で触れている「ダルタニャン氏の覚え書き」という書物が、実際に存在したといいます。 ところが、これがデュマの作品にそっくりながら、やはりクールティル・ドゥ・サンドラスなる人物の創作らしい。 ちょっと、がっかりしかけるのですが、このクールティル・ドゥ・サンドラス、物書きになる前は銃士で、しかも在籍当時の銃士隊長は「シャルル・ダルタニャン伯爵」。
やっぱりダルタニャンは実在したんだ!
ということで、歴史資料にその実像を探ることになります。

ダルタニャンの故郷、ガスコーニュの地理、風土や当時の歴史も解説しながらの記述は判りやすく、作品の背景がよく理解できます。
驚くのはダルタニャンと名がつく軍人は他にも大勢いること。
ダルタニャン家はガスコーニュでは名家で、かの銃士隊長は本当はドゥ・バツ・カステルモール家の出身だけれど、通りの良い母方のダルタニャン姓を名乗っていたということです。
デュマの作品ではダルタニャンのファーストネームは不明で他にもダルタニャンはいるのですが、その生涯を追ってみると、このシャルル・ダルタニャン銃士隊長がデュマの小説のモデルで間違いなさそうです。

史実のダルタニャンはデュマの人物より10才ほど若いものの、同郷の有力者を頼ってパリに出、軍務について頭角を現す、という点はほぼ同じようです。
作品と少し違っているのは、リシュリュー枢機卿、ルイ13世亡き後のマザラン枢機卿の時代、銃士隊は解散してダルタニャンはマザランの腹心の部下として伝令役を務めていたということです。 「三銃士」しか読んでいない読者には、枢機卿の部下というのは違和感があるかも知れませんが、「20年後」のダルタニャンは身分こそ銃士副隊長でも、マザラン枢機卿には(内心はともかく)忠実に振る舞っています。

史実のダルタニャンはルイ14世が成人後復活した銃士隊の隊長代理となり、やがて結婚もしています。
この時彼は40歳をすぎ、お相手も35歳の未亡人ですが、ブルゴーニュの名家出身でなかなかの財産家ということです。 ルーブル宮対岸のセーヌ河畔に屋敷を構え、銃士隊副隊長のくせに酒場に女将のヒモのように居候している小説のダルタニャンよりましな感じがします。
けれどこの結婚生活は実質的に破綻してしまったようで、2人の男の子が生まれたけれど、夫人は2年ほどで命名も洗礼もしないままの子供らを連れて故郷に帰ってしまいます(次男は故郷で略式の洗礼を受けた)。 結婚破綻の原因について、著者は夫人の浮気(次男はダルタニャンの実子ではない?)説をあげて「(夫人は)もう少し我慢できても良さそうなものではないか。」と書いていますが、私には当時のフランスの結婚生活というものが今いち理解できないので何とも言えません。
宮廷社交界でよくナントカ夫人というのが王の愛人になったり恋愛スキャンダルで名を上げていますが、この人たち全てが未亡人でもないと思います。 彼女らの夫は何をしているのでしょうか? 
私の想像ですが、夫は領地でその経営に専念していて、夫人はいわば大使のような感じでパリ社交界に出入りしていたのではないでしょうか。 だとすれば浮気も社交手段の一つ?
それならば、夫が宮廷で公職について夫人が領地経営する逆バージョンもありと思いますが、ダルタニャン夫妻の場合は本当に関係が破綻していたようです。 子供に名前も付けず洗礼も受けさせないということですから。 洗礼に関しても、これが全く異常なことか当時珍しくないことかは、もう少し言及が欲しいところですが。
ダルタニャン夫人は、おそらくパリ生活が性に合わなかったのでしょう。 郷里にいれば文字通り一国一城の主でたいていのことは意のままになるのに、30代半ばになってから王族など目上に気を遣うパリの社交界になじめなかったのでしょう。 慣れない土地で頼りの夫は留守がちで、一人で高齢出産の不安を経験し、あるいは心を病んでいたのかも知れません。 そこを考慮すると著者の決めつけは夫人に冷たすぎるように感じます。

私生活はともかく、銃士隊に復帰してからのダルタニャンは公務に励み、財務卿ニコラ・フーケの逮捕と護送では、奪還を図る一派に警戒しつつ囚人の待遇には心を砕き、「王には忠義あり、かつ護送する囚人には人道あり」と世に絶賛された、という下りは史実と小説のダルタニャンが重なってみえます。
親政を敷くルイ14世の信任厚いダルタニャンはやがて正式に銃士隊長となって伯爵を自称するようになり(これは正式の物ではないけれど実質的に伯爵に匹敵するということのようです)、かつての自分のようにパリに出てくる同郷の若者の面倒もよく見たようです。
その後も各地の戦場で活躍した彼は、1673年6月25日オランダ戦線のマーストリヒト包囲戦で銃弾を受けて戦没します。 ルイ14世はその数日後のマーストリヒト陥落を喜ぶよりもダルタニャンを失ったことを嘆いたといいます。
太陽王は残された息子たちに洗礼とルイの名を与え(2人ともルイでややこしいですが)、父親の忠義に報いています。

デュマの小説に惹かれて史実のダルタニャンの生涯をたどってみれば、やはり興味深い歴史を知ることが出来ました。
当時の結婚生活や意識など、いくらか疑問の残るところもありますが、また別の機会に知ることが出来ればと思います。


「ダルタニャンの生涯ー史実の『三銃士』ー」    佐藤賢一著(岩波新書