出星前夜

寡作ながら重厚な歴史小説を送り出す飯嶋和一さんが、島原の乱を題材にした大佛次郎賞受賞作。
以前紹介した「黄金旅風」に、時代も場所も続いています。 続編というわけではないのですが、前作の主人公、長崎(外町)代官・末次平左衛門も登場しています。 
 
前作で、長崎奉行・竹中重義との政治的な戦いに打ち勝った平左衛門は、恨みを買って狙撃されます。 その平左衛門を救った医師が外崎恵舟(とのざきけいしゅう)。 まだ若い漢方医ながら、殉教した名医修道士ガブリエル・マグダレナに西洋医術の手ほどきも受け、技量も人物も優れた名医。
その恵舟が、乞われて島原半島南目(南海岸部)の村々に、子供らの流行病治療に向かうところから、物語は始まります。 そこで恵舟が出会ったのはただの流行病ではなく、子どもも大人も弱らせる天災と島原藩・松倉家の圧政でした。
島原・南目は最後のキリシタン大名有馬晴信の本拠地で、恵舟を呼び寄せた有家村庄屋の甚右衛門も元は鬼塚監物の名で知られた勇将。 他の庄屋達も元々この地の土豪で、有馬家に軍役衆・水軍衆として仕えたが、晴信失脚、有馬家移封後に帰農した人々です。
その島原の土地柄と歴史、幕府に取り入るため石高の倍もの年貢を押しつけ、異議申し立てはキリシタンとして過酷に処罰する圧政が、次第に人々を追いつめていく様子が克明に描かれます。
 
島原の乱というと天草四郎を中心としたキリシタン一揆といわれていますが、本作で四郎が登場するのは第2部になってから。 天草は島原と違って寺沢家の領地。 その窮状は似たようなものでしょうが、天草の事情はあまり詳しく書かれていません。
 
勝手な推測ですが、作者も天草四郎をどう評価し描いて良いか解らなかったのではないでしょうか。
その代わりというか、本作の主人公となっているのはイスパニアの血をひく有家村の若者、矢矩鍬之介(やのりしゅうのすけ)、通称寿安。 彼が座して死を待つよりはと森の教会堂跡に籠もって大人達に反抗の姿勢を示し、村の大勢の若者や子供らが同調したことから、騒ぎは引き起こされます。 穏便にという甚右衛門の努力にもかかわらず、藩の無策や勢力争いが混乱に拍車をかけ、ついには甚右衛門自身もキリシタンに立ち返っての蜂起に踏み切ります。
 
皮肉なことに、争わず棄教して堪え忍ぶことこそキリシタンの教えに叶っており、蜂起して戦うことはむしろその教えに反することになるのです。 純粋な寿安は蜂起勢の島原城下での略奪を目の当たりにして幻滅し、戦線を離脱します(ここのところ、私にはちょっと説得力が足りない気がしましたが)。 そして姉の子らを始めとする島原北岸の子らを救うために長崎に恵舟を訪ねますが、折からの赤斑瘡(天然痘?)に足止めされ、そのまま恵舟を手伝うことになります。
 
この寿安と四郎は表裏一体の人物のように感じられました。 寿安が戦線を離脱すると入れ替わりのように四郎が登場します。 寿安の心理は詳しく描かれるのに、四郎はその神懸かり的な言動が描かれるだけで、心情はうかがい知れません。 本作では天草四郎とせず(もちろんこの呼び名は後世のものでしょうが)益田ジェロニモ四郎としていますが、純粋な天の使いなのか、人々を破滅に導く狂信者なのか、作者は判断を保留しているように見えます。
 
原城址に立てこもっての籠城戦は、結末が分かっているだけに辛くてなかなか読み進めませんでした。 戦乱よりはどんな形でも平和をと、村人や家族に蔑まれても藩に協力してきた甚右衛門・鬼塚監物が一揆の首謀者として無惨な死を遂げる、その報われない一生にやりきれない思いがします。
 
島原の乱から10年後、大阪に現れた医師・北山寿安こそ、あの寿安の後身なのでしょう。 名医ながら貧者は無料で診療するために、いつも貧窮していた彼のエピソードでこの話は終わります。
まだ夕映えのように明るい時代の名残(それとも平左衛門の富貴故?)を感じる「黄金旅風」に比べて、本作はただただ暗い夜を感じさせます。 その暗く長い夜の時代に一隅を照らす小さな星になった寿安。 その事に素直に救いを感じられないのは、その暗さが何となく現代まで引きずられているからかも知れません。
 
北山寿安は実在の人物で、長崎出身とされる彼を島原の乱の生き残りと着想したところに、この物語が生まれたのでしょう。 
前作「黄金旅風」でも感じていたけれど、本作にもちょっと既視感がありました。
それは、あの「のぼうの城」がジャンプ漫画だとすると、この2作は昔の劇画、例えば白土三平の「カムイ伝」や「忍者武芸帳」を連想させるところがあります。 そういっても別に悪口にはならないと思います。 それだけ漫画が現代文化では無視出来なくなってるということですね。
 
 
「出星前夜」   飯嶋和一作 (小学館