高学歴ワーキングプア ー 「フリーター生産工場」としての大学院

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いつの間にか「ワーキングプア」という言葉が定着しています。 
朝から晩まで、毎日のように働いても生活にゆとりがない、いや、生活そのものが成り立たない。
それこそ昔なら考えられなかったことが、現代の日本社会を根底から揺さぶっています。
それでも、「高学歴」と「ワーキングプア」は結びつかないのでは? 「ワーキングプア」というのは勉強しない、努力しない人たちが陥るのでは? と思っているなら、本書を読んでみて下さい。 それが大きな間違いであることが分かるでしょう。

大学院を出ても、学位を取っても仕事がない。 研究の場、機会が全く得られない。 ありがちな大学や短大の非常勤講師では生活していけるのに程遠い。 仕方なく、コンビニのバイトや肉体労働で補って生活しているが、ワーキングプアから抜け出すめどは全く立たない。

そんなの遠い世界の話、特殊な例と思いますか?

いや、狭い特殊な世界だからこそ、ここに現代日本の教育、雇用、仕事の問題が、典型的な形で示されています。

著者は、その根底に文科省と大学による「大学院重点化」政策があることを指摘しています。
つまり、少子化による学生数の減少を大学院生を増やすことで補おう、それによって文科省や大学の既得権益を守ろうという政策だったというわけです。
問題なのは、大学院生を増やしながら、その受け皿である研究職や教員はあまり増えていないこと。
むしろ大学側は給与の高い専任教員を減らして、安上がりの非常勤講師ばかりを増やしている。
つまり、効率化、利益を上げることを最大の目標としているのです。 そこに上記のような「高学歴ワーキングプア」を生み出す原因があるということです。

実は私自身、本書に登場する人たちとそう遠くない立場です。
だから、ここの例が、決して大げさな物とは思えません。
むしろ、このような問題は「大学院重点化政策」以前からあったもので、それが「重点化」によって拡大、突出してきたと思えるのです。
「重点化」以前の大学院出身者、著者の言う「研究大学」出身者でも、地域、学部、ジェンダーにより、多かれ少なかれこのような問題はあります。 安泰とされている医歯薬系ですら、最近の医療崩壊の現状を見ると、決して恵まれているとは言い切れません。

では、大学院というのはデメリットばかりの無用の長物なのか?
決してそうではないと、著者は大学院の長所、そこで学ぶ利点も上げています。 
例えば情報収集・整理力、理解力、分析力、コミュニケーション力、プレゼン力。 知識そのものより、その知識をどう生かしていくかが、大学院で身につけることだ。 だから、必ずしも専門にとらわれず、知識ではなく技術を生かす方向に発想を転換して、生きる道を切り開いていこうと、大学院出身者達に呼びかけています。

よく似た立場の私から付け加えさせて貰えば、そもそも「学問」は生活とは結びつかない物だったのです。
アインシュタインは「科学をやるなら靴屋になれ」と言っています。 
生活手段は別に確保しなさいという意味です。 
ノーベル物理学賞を2度受賞したキュリー夫人も、その業績はお金と結びついていません(実は、彼女は夫の死後そのポストを継ぐまでは、本書でいう「ノラ博士」でした)。
科学、芸術、学問というのは実生活と遊離した、実利的でない物だったのです。
しかし、近代世界ではしだいに学問的知識や成果がお金や生産と結びつき、研究自体もお金のかかる物になってしまった。
そして現代の日本では、大学が就職のための予備校と化して、落ち着いて学問をする場所ではなくなってしまった(漱石先生が見たらなんと言うでしょうね?)。
そのあたりに根本的な問題があると思います。

そのような日本では明治以来、学問をすることが、立身出世、生活安定と結びついてきました。
それが最初に触れたように、「高学歴」と「ワーキングプア」にミスマッチな感じを起こさせるのです。
でも、それも日本社会を悪くしている一因かも知れません。
つまり学問をした人は生活に困ることがないため、貧困者がいる社会のあり方に目を向け、疑問に思うことも少なかったのではないか。
いま、高度な学問を修めた人たちが貧困に陥る事態が起こっています。 その多くは自分の知識・技術を世のため人のため役立てたいと願っているはずです。
その中から、ただ上を望んで焦り、妬み、あがくのではなく、貧困の現実を知って、自分の持つ知識・技術を身近な所から生活・社会改善に役立てようとする人たちが少しずつでも出てくれば、日本の現状も少しは良くなるのではと思います。

著者は精神的な問題の重要性を感じて仏門に入ったといい、学校や教育のあり方として「利他の精神」を説いていますが、そこに通じるものもあるようです。



高学歴ワーキングプア ー 『フリーター生産工場』としての大学院」 水月昭道著(光文社新書)