「ドリトル先生」シリーズ

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これも子どもの頃、大好きだったもの。

動物の言葉が話せるという設定が、とっても魅力的でした。

主人公は19世紀イギリスの田舎町「沼の上のパドルビー」に住むお医者さん、ドリトル先生
元は人間の医者だったのが、動物好きが高じて家中動物だらけになり、患者が寄りつかなくなってしまいます。 ただ一人の身内、妹のサラさんにも愛想を尽かされ、出て行かれます。
いっそ動物のお医者になれば、と勧めたのはオウムのポリネシア。 
物知りであらゆる言葉に通じた彼女の助けで動物語を学び、犬のジップ、アヒルのダブダブなど他の動物たちも役割を決めて家を手伝い、動物のお医者さんとして成功します。
やがて、その評判は海外にも伝わり、アフリカの動物たちから流行病の救いを求める使いがやってきます。
求めに応じてアフリカに行く冒険を描いたのが、第1作「ーアフリカゆき」。
治療に成功して動物たち(特にサル)を救ったお礼に、両頭の不思議な動物「オシツオサレツ」を贈られます。 帰国後、この動物を目玉にサーカス団を組織し、再び旅に。
サーカスで成功を収めた後は、役目を終えた「オシツオサレツ」を再び故郷に送っていき、さらに旅と冒険を重ねて、ついには月にまで行くことに。

動物とは心が通じ合うドリトル先生も、人付き合いは苦手のようで、親密なのは後に助手となる近所のスタビンス少年とネコ肉屋のマシュー・マグ夫妻くらい。
ネコ肉屋というのは、ネコの肉を売るのではなく犬猫が食べるクズ肉を売る商売です。 子どもの頃は普通のペットフード屋さんみたいに思っていたのですが、大人になって読んだある小説で、犯罪者に等しい扱いを受ける差別される職業だと知りました。 マシュー・マグも実は後ろ暗い過去を持っていることが、作中で仄めかされています。 しかし、ドリトル先生は、そんな彼を全く普通の友人として対等に扱っています。 ずっと目下であるスタビンス少年にも、丁寧な人格を尊重する態度で、助手になってもその扱いは変わりません。
逆に身分の高い相手にも決して遠慮することはなく、そのあたりが世間で変人扱いされているようです。

作者の思想の反映か、ドリトル先生の思想と行動には近代文明批判が色濃く出だし、最後の方の「ー月へゆく」や「ー秘密の湖」は文明不信、人間不信の色を帯びたちょっぴり憂鬱な調子になっていきます。
また、ネコ好きな私としては、先生を取り巻く動物の中にネコがいないのが不満でした。 「ー月から帰る」では、月のネコが家族に加わるのですが、他の動物とはあまり関わらず、神秘的というよりちょっと不気味な存在として描かれていて、不満は解消しませんでした。

そんな理由で、後の方はちょっとテンション下がり気味だったのですが、中学か高校の頃、ドリトルDolittleというのは原語では「ドゥーリットゥル」というような発音で、東京などに空襲をもたらした爆撃隊の隊長と同名と知り、ショックでした。
もちろん、作者や、どこも丸っこく平和的で好人物の先生には何の責任もないことは分かっていましたが。

ドリトル先生の文明批判の象徴として、「世の中にお金なんて物がなければ」という意味の言葉があります。
子どもの頃はこれが理解出来ませんでした。
お金がなければ何も買えないし、不便じゃないかと思っていたのです。
けれども、人間の歴史の中で、貨幣が経済の中心を占めるようになったのはそう古いことではありません。 近頃の経済危機というのも、貨幣経済の歪みが必然的に行き着くところという感じもします。
作者は現代資本主義の始まりの頃から、その矛盾と危険性を予見していたのでしょうか?
経済の行き詰まり、自然破壊の危機が叫ばれる今、ドリトル先生の言葉と思想を、私たち大人がじっくり味わい、再評価すべきなのかも知れません。

なお、参考にウィキペディアを覗いたところ、爆撃隊長はDoolittleで1字だけですが先生とは違っていることが分かり、ちょっぴりホッとしました。

ドリトル先生」シリーズ 全13巻 ヒュー・ロフティング作 井伏鱒二訳(岩波書店