坊ちゃん

イメージ 1

長らく看板だけの「日本近代文学」。
日本の近代文学といえば、私にとっては夏目漱石。 漱石といえば、まず取り上げたいのは「坊っちゃん」か「吾輩は猫である」。 書きやすいのはこちらなので、「坊っちゃん」から。
テキストも多数あって、どれを参照にすればよいか迷うのですが、そういう物は収録が有れば出来るだけ、電子図書館青空文庫」を参照させていただくことにします。

坊っちゃん」てどんなお話しか、ある年齢以上の日本人なら知らない人はいないでしょう。
たとえ原作を読んでなくても、ドラマ、演劇、映画、漫画、アニメと、原作に比較的忠実な物から、パロディー、オマージュ、本歌取りと様々な分野とバリエ-ションで取り上げられている。 一部引用もあちこちで眼にする。 文学にとどまらず、近代日本文化にこれほど影響を与えた作品はちょっと無いでしょう。

でも原作を読んでいる人は意外と少ないかも知れません。
ストーリーは簡単に言うと、東京育ちのお坊ちゃんが、愛媛は松山に中学校教師として赴任し、固陋因習の土地柄、姑息で事なかれ主義的な中学校で俗物どもを向こうに回して、持ち前の生一本な江戸っ子気質で大暴れ、というところでしょう。 映画やドラマでも主人公が松山に赴任するところから始まるのが多かった気がします。
ところが実際読んでみると、前半の坊ちゃんの生い立ち、その悪ガキぶりや老女中清との交流の記述が意外に多いのです。 内容はたわいない物ながら、散々悪さをして親にも見放される悪ガキが、教師になると生徒のいたずらに本気で怒るところに滑稽さがあるし、清との絆は最後まで足元をついて流れる清流のように、この作品の爽やかさの一助となっています。
やはり、一度は原作を通して読んでみたいものです。

主人公の性格もストーリーも一見単純なようでありながら、含蓄があって、いくらでもウラ読み、深読み出来るところもこの作品の魅力で、様々に変化して生命力を失わない要素でしょう。
作者の深い教養がそれを裏付けています。

出所を思い出せないのですが、私が面白いと思ったのは主人公が左利きであると言う指摘。 冒頭のナイフのエピソードで、自分で付けた傷が右手の親指の付け根にあるというのが根拠です。 
漱石も左利きだったそうで、もしかして、実際にあったこと?という気もします。

もう一つは又聞きですが、坊っちゃんは意外と「秀才」、ということ。
「物理学校」に大した試験もなく入学し、ろくに勉強もせず卒業、となっているのでロクな学生じゃない気がします。
しかし、実はこの「物理学校」、今の東京理科大学の前身で、当時はアメリカ式の教育を行っていて、入るのは易しいが出るのは難しい、相当勉強しても落第も珍しくなかったそうです。 だから「ろくに勉強もしないのに、(下から数えた方が早いとはいえ)落第もせずに卒業」というのは意外と優秀、ということになります。 だから校長先生もそこを見込んで、地方とはいえ結構高給取りの中学教師の職を斡旋してくれたのでしょう。

これは私の仮説ですが、「バッタ騒動」での坊ちゃんの就眠儀式、バタンと倒れて寝るというのは、一気に脱力する一種のリラクゼーションで、漱石自身もやってたんじゃないかと想像します。
イギリスに留学した漱石神経症になりますが、洋式のベッドでは、この「バタン」が出来なかったのもその一因、というのは考え過ぎかな?

坊ちゃんは教師として優秀か否か? 良い教師か、悪い教師か?なんて考えてみるのも面白い。
さきの「物理学校」の件からは案外優秀とも思えますし、生徒にいたずらを仕掛けられたり、あれこれ噂されるのも、人気があるからとも考えられます。 正反対の解釈も成り立ちますが。

直情径行、単純に見える主人公の性格、人物評価だけでも一筋縄ではいかない。
いろいろ解釈の余地はありますが、私としては、清が言うとおり竹を割ったような生一本な性格としておきたいです。
世間知らずで単純で、自分一人の解釈で周囲の人間をばっさばっさと切り捨てる。 それを爽快に感じるのは、そう簡単に切捨てられない我々一般の日本人は、実は保身や打算で出来ないだけで、一見他人を思いやるふりをしながら実は利己的。 それに対して、主人公「坊ちゃん」は自己チューだけど利己的ではないからでは?
超自己チューだけど利己的ではなく、まわりとの衝突も物ともせず自分の流儀で突っ走る、そういう人間は、よそ目に見ている分には面白いけれど、身近にいると困りものかも。
だとすると、「寅さん」も「クレヨンしんちゃん」も坊ちゃんのバリエーション?


そのほかにも、個々の登場人物、細かいところにこだわって読めば、いくらでもいろんな楽しみ方が出来ます。

面白いのは、作中散々な貶され方をしている松山の人たちが、この作品をこよなく愛し、親しんでいること。
以前、あるTV番組で松山の人が「悪口が言えるのは、それだけ漱石が松山に親しみを持っていたから」という意味のことをおっしゃっているのを見ました。 その根底には親友で松山出身の俳人正岡子規との友情があるのでしょう。
作家の丸谷才一さんが以前、朝日新聞のコラム「袖のボタン」に、「漱石はこの作品で(松山という特定の地域でなく)日本人一般を風刺している。 松山の人たちは自分たちが日本の代表に選ばれたことを名誉に思っているのではないか。そこを読み取る松山の人の読解力は大したもの。」という意味のことを書いておられました。

先の番組で、やはり松山の人が「坊ちゃんはマドンナに惚れていた」ともおっしゃっていましたが、これは登場シーンを読んでも想像が付きます。
すると、この「坊っちゃん」で既に、後の「それから」「門」「こころ」に通じるテーマが現れていたことになります。
そこに気づいている松山市民、恐るべし。


坊っちゃん」 夏目漱石 作 (青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card752.html)                    (画像は角川文庫版)