グレート・ギャツビー

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昨年、村上春樹の新訳で話題になったもの。
図書館で見つけてすぐ手に取りました。 話題のものを何としてでも読みたいとは思わないけど、心のどこかに引っかかっているんですね。

舞台は1920年代始めのニューヨーク。 現代小説とするにはちょっと古いかも知れないけど、
「『グレート・ギャツビー』は、何があろうと現代に生きている話でなくてはならないのだ。」という訳者の主張は一読して十分に共感出来るので、それを尊重して現代小説としておきます。

謎の青年富豪ジェイ・ギャツビーとその悲しい運命をめぐる一夏の物語を、西部出身の青年ニック・キャラウェイの眼を通して描いています。
ギャツビーはニューヨーク郊外に豪壮な邸宅を構え、夜ごと桁外れに豪華で大規模なパーティーを催しています。訪問客も彼の経歴や職業を知らない、いや、彼を直接知らない人さえ客として押しかけて乱痴気騒ぎをしています。 そしてギャツビーの正体について、あれこれ良くない噂をしているのです。
語り手ニックは、ギャツビーの隣家に偶然住むことになってパーティーに招待され、さらなる偶然から彼の秘密に深く関わっていくことになります。

ギャツビーがここに住むのも連夜豪華なパーティーを開くのも、かつて深く愛したが彼の出征中に人妻となってしまったデイジーとの関わりを持ちたいためでした。
そのデイジーはニックの遠縁で、現在はギャツビーの住まいと海峡を隔てた屋敷に住んでいます。 つまりギャツビーは愛する人の家が見える場所に屋敷を構えたのです。
ニックの仲介で二人は再会し、デイジーの夫の浮気もあって、二人は再接近するかに見えますが…。

まず読み始めて、アメリカの大金持ち(上流階級とは限らない)の豪勢な生活ぶりに実感が持てず、いつも好んで読むファンタジーよりさらに遠い架空の世界のようで、戸惑いを感じました。 この距離感というか虚構感は村上春樹の作品ともどこか通じるものがあります。 村上作品の場合はそれに戸惑うことはあまり無く、むしろその虚構を楽しめるのですが。

物語の最後ギャツビーは悲劇的な死を遂げ、死後の運命さえ哀れなのですが、あまり理不尽さを感じず、むしろ静謐な安堵のようなものさえ感じます。
それは彼がデイジーの決定的な裏切りを知らず、実質的に彼女の身代わりとなり彼女を守って死んだからかも知れません。 あるいは、彼の富が噂から遠からず不法な手段で得たものであることを、息子は都会で成功したと信じて誇りにしている老父に知られずに済んだからかも知れません。
けれど最大の理由は、物語の最初にニックが語るように、ギャツビーが最後の最後に人としてまっすぐであったことを示してくれたからでしょう。
そのようなギャツビーに共感するニックと並んで、ギャツビーの葬儀に只一人駆けつける男性の存在も、わずかながら救いを感じさせてくれます。

本の最後に、訳者村上春樹さんのやや長い解説があります。 それを読むとこの作品の背景や作者について良く解りますが、作品に対する思い入れの強さには圧倒され、ちょっと引いてしまいました。
私には流行や話題の本や映画を敬遠する、天の邪鬼なところがあるのですが、それは先入観を植えつけられたり、感動を強制されるのが嫌だからだということを改めて思い出しました。

この作品については考えさせられる所がいろいろあるのですが、解説を読んでしまって一時的に思考停止に陥っています。
人生は儚く虚しい。 だから馬鹿馬鹿しく無意味なのか、それでも捨てたものではないのか。
その答えと共に当分の間、保留にしておきます。


グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド作 村上春樹訳(中央公論新社 村上春樹翻訳ライブラリー)