エーリッヒ・ケストナー こわれた時代

とくに作家で読むことはあまりしない私ですが、エーリッヒ・ケストナーは数少ない例外の好きな作家のひとり。 といっても今まで読んでいるのは主に子ども向けの作品で、伝記や評伝も読んだことが有りません。 子どもの味方ケストナーおじさんのイメージがぐらつくのが嫌だという面もあったかもしれません。 でもこの本を手に取るのに、あまり迷いはありませんでした。
著者は児童文学者らしく、本著も1995年ドイツ児童文学賞受賞作という事ですが、必ずしも子ども向けの内容とは思えません。

ドレスデンでの模範的な少年時代、母親との親密な関係は作品の登場人物エーミールやアントンを思わせて懐かしさを感じましたが、彼らと違って父親はいるのにその存在が全く希薄なのです。 著者はヴェルダー・シュナイダーという人の評伝を引いて、エーリッヒの実父は戸籍上の父エーミールではなくて、一家のかかりつけ医だったユダヤ系のツィンマーマン博士という人物だとしていますが、訳者あとがきによると真偽のほどは分からないそうです。
母子の密着ぶりは、現在からみるとちょっと異常なほどです。 二人だけで旅行や観劇に出かけたり、成人して親元を離れてからも頻繁に手紙を送りあって、エーリッヒは自身の女性関係まで、いちいち母親に報告しているのですから。 このような母親との関係が、ケストナーの人となりや作品に影響しているのでしょうが、子ども向けの作品にはその良い面が出ているようです。 自分を絶対的に信じて、常に味方になってくれる母親への信頼が、作品の中での子どもたちに対する信頼に結びついているようです。
それに対して、学校や軍隊の権威的、強制的なやり方には強い反発を覚え、それがその後のケストナーを方向づけたようです。

教師の道に見切りをつけ、ライプツィッヒ大学に入学したエーリッヒは、詩作、文筆に頭角を現し、やがてベルリンに出て活躍し始めます。 しかし、ナチスの台頭によって活動を制限され、12年に及ぶ国内亡命ともいうべき生活を強いられます。
この副題にもなっている長い年月、どうしてケストナーは亡命もせずドイツにとどまり続けたのか? 彼自身はのちに《時代の目撃者となり、やがては証言者となるために、あらゆる危険に立ち向かうことが職業上の義務だと思います。》と述べています。 しかし著者は、60歳を超えた母親を残して国外に出ることは考えられなかったのでは、と推測しています。 それも一つの理由ではあるのでしょうが、やはり自分の国の行く末をその場で見定めたいというのが一番大きいのではと私は思います。 そういう一種の好奇心や現場主義のようなものが、彼の作品に生き生きした雰囲気を与えているのではないでしょうか?
その年月の間の彼の活動については、本書で初めて知ることが多かったです。 意外なのは、息詰まる潜伏生活というのでもなくて、娯楽小説をスイスの出版社から出したり、亡命した友人に会いに国境を越えて往来したりもしています。 驚くのは、ナチス肝いりの映画「ミュンヒハウゼン」の脚本を担当していたという事です。 脚本家がケストナーの偽名と知ったヒットラーは激怒して、その名を削除させたそうですが、ケストナーナチスと一緒に仕事をしたと非難されることになります。 この辺りの事情は今もよくわからないようですが、こういう状況で、のちに回想しているように「切迫した身の危険にさらされていなかった」と感じていたのかもしれません。
とはいえ、決して危険がない状況だったわけではなく、親しい友人が何人も命を落としていますし、ケストナー自身も2度ほど逮捕されています。 そのたび、誰か助けてくれる人がいて危機を脱したのは、運の良さもあるでしょうが、彼の作品の力ではと思います。 「エーミールと探偵たち」はその人気ゆえに、ナチスも図書館から排除する本のリストから外さざるを得なかったそうです。 1933年5月のベルリンオペラ座広場での焚書の場で見かけたケストナーに気づかないふりをした警察官や、徴兵検査で見逃してくれた軍医も彼の作品に親しんだことが有るのかもしれません。
最も危機が迫ったのは、敗戦の色が濃くなった1945年3月、やけになったナチス親衛隊が気に食わない人物を道連れにしようという殺害リストに載せられた時です。 この時も先の映画関係者が、チロル地方での撮影(という名目の疎開)に同行させてくれて、ベルリンを脱出することができました。
戦後も彼の活動は続きますが、特に触れておきたいのは50歳を過ぎて若い愛人との間に息子ができたことです。 偉大な、そして年の離れた父親を持った息子は結構大変だったのではと同情します。 案の定あつかい難くなった息子に困り果てた母親がケストナーに助言を求めたとき、「しつけにはビンタがいい」と答えたエピソードには「ちょっと~、おじさ~ん、それは無いんじゃない?」と言いたいですね。 作品では子どもを信頼し、軍隊式の押し付けを嫌った人にしてこれだから、教育の問題は一筋縄ではいきません。 父子関係は悪くなかったようですが。
ケストナーの両親はドレスデンで空襲に会い、ソ連に占領されて苦労したものの、戦後2年目に息子と再会し、80歳を超えて長生きしました。 1946年の写真を見ると、その父親の穏やかで風格ある姿が印象的です。 母親の死後、こちらの父子は関係を修復し、89歳の父親ははるばるミュンヘンまで息子を訪ねています。 著者には実の父でないと決めつけられていますが、長年母子の関係から締め出されても耐え続け、職人の技と誇りを支えに生き抜いたところは、こわれた時代を柔軟に生き延びたエーリッヒ・ケストナーと通じるところがあって、やはりこの人物が本当の父親ではないかという気がするのです。

 

エーリッヒ・ケストナー こわれた時代」  クラウス・コルドン 著

                      ガンツェンミュラー文子 訳
                            (偕成社